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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ユーヌス(1416年 - 1487年)は、モグーリスタン・ハン国の君主(在位1468年もしくは1469年 - 1487年)。漢語史料ではハージー・アリー(哈只阿力)と表記される。 ナクシュバンディー教団に属する聖者のマウラーナー・ムハンマド・カーズィーはユーヌスと対面した時、彼が自分が想像していたような野蛮なモグール人ではなく、洗練された物腰の人物であったことに驚嘆した〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」]『東洋史研究』46巻3号、101頁〕。ナクシュバンディー教団の指導者であるホージャ・アフラールはユーヌスの優雅な振る舞いに感銘を受けてモグール人を「真のイスラム教徒」と認め、周辺諸国のスルターンにモグール人を異教徒の奴隷と同じように売買することを禁止するよう書簡を送ったと、ユーヌスの孫ミールザー・ハイダル・ドゥグラトは伝えている〔。ハイダルは著書『ターリーヒ・ラシーディー』の中でユーヌスの教養と武勇を挙げ、彼をチャガタイ家のハンの中で最高の人物だと賞賛した〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」]『東洋史研究』46巻3号、101-102頁〕。モグーリスタンのハンに即位したユーヌスはかつて身に付けた定住民の文化を捨て、遊牧民として生活した〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、786,788頁〕。 == 生涯 == === 父ワイスの死 === モグーリスタン・ハン国の君主ワイスの長子として生まれる。ワイスが暗殺された時、ユーヌスと彼の弟のエセン・ブカのどちらをモグーリスタン・ハン国の後継者とするかで国内が2つに割れた〔。内戦の結果、ユーヌスは従者を伴ってサマルカンドを統治するティムール朝の統治者ウルグ・ベクの元に亡命するが、監禁される。ユーヌスはティムール朝の君主シャー・ルフの元に送られて厚いもてなしを受ける。イランに移ったユーヌスはらの下で学問を修めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユーヌス (モグーリスタン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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